ルワンダの旅

9月22日から10月2日まで旅をしてきました!
ウガンダを離れ、11日間でルワンダ南アフリカタンザニアケニアと渡っていく・・・予定でした。出発当日、ルワンダ行きの国際便を待っていると、テレビはケニアで起きたテロの話題ばかりで、嫌な予感がしました。ケニアの首都ナイロビのショッピングモールで、アルシャバーブというテロ組織による無差別殺人事件が起きてしまったのです。
案の定、JICA事務所から連絡が入り、ケニアへの立ち入りは禁止となってしまいました。なので今回は旅程を変更して、ルワンダ南アフリカタンザニアへ。ケニアにも行きたかったので本当に残念でしたが、最初に訪れたルワンダの旅から書きます。


まずルワンダの基本情報から。

人口:
約1130万人(2012年)


面積:
2.63万㎢(日本の本州ほどの面積であるウガンダの1/10くらい)


人:
ウガンダ人と比べてあまり積極的ではなく、外人に対しても、あまりぼったくろうとしない。ドイツ、アメリカ、ベルギー、フランスなどの国々に植民地化されていたせいか、混血が多いのかも知れない。美人とイケメンが多かった。



町並み:
きれい。毎週土曜日に国全体で奉仕活動をするような習慣もあり、畑仕事を大人数で力を合わせて行っている姿が印象的。囚人にはオレンジやピンクの囚人服を着せ、畑仕事を手伝わせていた。バイクタクシーに乗るときにはヘルメット着用が義務付けられているし、長距離移動のバスは時間きっちりに出発する。このようなルールが守られていて、しっかりしている。



言語:
キニアルワンダ語、フランス語が主流。あまり英語が通じない。この国では、「ki」を「チ」と発音する。自分の名前Ikimasaは「雄牛」という意味らしい。



ルワンダは今でこそ治安が良くてきれいな町並みをしていますが、とても暗く、悲しい過去を背負って生きています。過去に起こった出来事についても紹介しようと思います。
もともと、ルワンダにはツチ族フツ族が共存していました。1994年、フツ族によるツチ族の大量虐殺が起き、約100万人のツチ族が亡くなりました。ルワンダの国中にはこの過去を忘れないために「虐殺記念館 – GENOCIDE MEMORIAL CENTRE」が多数存在します。今回の旅で、できる限りの虐殺記念館を訪問してきました。首都「キガリ - KIGALI」、もっとも虐殺の行われたギコンゴロという街にある「ムランビ - MURAMBI」、現地で紹介してもらった「ニャマタ - NYAMATA」、そしてニャマタのブランチである、元カトリック教会の「ンタラマ- NTARAMA」計4箇所です。




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ルワンダは1つの国で、1つの言語を話し、平和に暮らしていた。」
どの虐殺記念館も、始まりの言葉は同じだった。ルワンダの植民地化が始まったのは、第一次世界大戦まではドイツ、それからベルギー、フランスに植民地化され、それらの国によってツチ族フツ族の区別化が一層進むようになった。牛は裕福の象徴とされ、10頭以上の牛を所有している者はツチ(人口の約15%)、10頭未満の牛を所有している者はフツ(人口の約85%)とされ、ツチ族は比較的裕福な人々だった。1930年代には国民1人1人にIDカードが配布された。
内戦は継続的に続き、長い間政情が安定しない状況にあった。

そして問題の1994年。フツ族であった大統領が乗っているヘリが撃墜され、大統領が死亡する。そしてテロを起こした容疑者がツチ族であったとの情報が流れ、フツ族の怒りが頂点に達する。この事実を受け、信じられないことに、政府によるツチ族の大量虐殺命令が下る。街には検問所が設けられ、IDカードがチェックされ、ツチ族であれば抵抗する間もなく、ナタや銃で殺されていった。



ツチ族のゴキブリどもを1匹残らず殺せ。」
こんな言葉がラジオで飛び交っていた。

子ども、女性関係なく、20分ごとに1,000人のツチ族を殺すように命令が下った。繰り返すが、命令したのはルワンダ政府だ。虐殺が始まる前から実は既にツチ族リストがあり、戦略的に殺されていった。

理解できないことに、ルワンダには平和維持軍として、フランスのUN(国連軍)が居たのに、虐殺を止めようとはしなかった。ツチ族を唯一救える可能性のあった国連軍は、殺されていくツチ族を黙殺したのだ。

殺されたツチ族は約100万人。しかもたった100日間の出来事。約50万人の女性はレイプ被害に遭い、残酷にも殺されていった。

中でも、ンタラマ虐殺記念館に展示してあった約2.5mの細い木の棒。殴るための棒だと思っていたが、違っていた。レイプされた後、女性のプライベートパートからこの棒が挿入され、頭まで貫通させられたらしい。人間を串刺し・・・。残酷すぎて言葉も出なかった。政府の命令でここまでしてしまう人間を恐ろしく思った。
また隣の部屋には、小学生のための教室があったが、壁を見ると今でも分かる、血糊のあとが・・・。授業中にフツ族がやってきて、ツチ族の子どもを壁にぶつけて次々と殺していったらしい。

ある者は妊婦である妻の腹を目の前で割かれ・・・ある者は銃を渡され親戚や友だちを殺すように命じられ・・・殺すことができなければ、当然のように殺されていった。

タラマはもともとカトリック教会で、ツチ族の人々が避難してきたが、壁は手榴弾で破壊された跡も残っており、爆弾を中に投げ込まれて殺されたらしい。ここにあった遺体数は約6100。これで小規模の虐殺記念館だ。



タラマ虐殺記念館の近くにあるニャマタ虐殺記念館は、少し大きめの元カトリック教会で、遺体数は約10,000。宣教師であったスペイン人も含まれているらしい。



大量虐殺のメイン舞台となってしまったムランビ虐殺記念館は、虐殺が起きている最中に、フランス軍が建てた学校だったが、学校として利用されることは一度もなく、虐殺記念館として残っている。遺体数は約50,000。



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余りにも残酷すぎて、この世の出来事とは思えませんでした。虐殺記念館に展示してある骨には、子どもたちもたくさん含まれていました。
1994年、自分は9歳。ほのぼのと小学校で毎日を過ごしていました。もし自分がルワンダ人として生まれ、ツチ族の1人として生活していたとしたら、あの場所に眠っていた骨は自分だったのかも知れません。
自分の同級生が、19年経った今も骨だけの姿で眠っている。自分が恵まれて育ったことを再認識させられました。涙が出そうでした。

虐殺記念館はたくさんの骨が展示してありますが、現在は写真を撮ることが禁止されています。本当に、信じられないくらいたくさんの骨があります。骨をよく見ると、銃弾が貫通したあとのあるもの、ナタで頭蓋骨を割られたもの、腕の途中で骨が切断されているもの、その残酷さが分かります。未だに、ところどころ髪の毛がくっ付いていたりと、生々しさも残っています。骨の展示室は異様な雰囲気に包まれていて、不気味で独特の臭いがします。

虐殺記念館には、骨だけでなく様々な物が展示してあります。
神聖な場所である教会が狙われることはないと思っていたツチ族の避難者。彼らは生活に必要な服、マットレス、食料などを教会に運び入れていました。虐殺記念館となってしまった今では、それらが大量に展示されています。



このルワンダの大量虐殺は映画化されています。
ルワンダの涙」「ホテルルワンダ」は絶対に見てほしいです。そして人事だとは思わないでもらいたいです。ホテルルワンダは、ツチ族をかくまい、避難させたミルコリンズホテルが舞台となっています。このホテルにも行ってきました。



各虐殺記念館にはツチ族の生き残りである方々の体験談も綴られていました。その中で印象に残っている言葉を紹介しておきます。



“All this pain is bottled up in the hearts of the survivors.”
“全ての悲しみは生存者の胸の奥に押し殺されている”


“Remember the bad times as you struggle to build a better world.”
“もがき、苦しい時間はよりよい世界を作るためだと思え”


“If you know me and you are really knew yourself, you would have not killed me.”
“もしあなたが私を知っていて、自分自身のことをよく知っていたとしたら、あなたは私を殺さないだろう”


ルワンダの旅は2泊3日だけでしたが、得るものは多かったです。
一見、平和そうに見えるルワンダ。しかし悲しい過去を背負いながら現在を強く生きています。これがルワンダ人の人柄を作っているのかも知れません。この大惨事が二度と起きないように、これらの記念館を大切に保存してもらいたいし、ルワンダの将来に期待したいと思います。


次回は南アフリカについて書きます。


Ichimasa