ウガンダ人の頭の中

ウガンダ人の頭の中にある考え。
育った環境が異なるので当然ですが、やはり自分とは大きく異なるものです。今回は、その「違い」について感じることを率直に書きたいと思います。

度々述べてきたように、ウガンダは日本に限らず、世界中の先進国から多くの支援を受けてきました。その支援により国が成り立っていると言っても過言ではありません。



そのことによる、副作用というか、2次被害というか…
今に始まったことではありませんが、最近特に感じるのが「物は使い捨て」「壊れて当たり前」といった考え。これは日本も含めて先進国にも問題があります。

「貧しいから可哀想、どうにかしたい」
「寄付したい」「貢献したい」

といった考えの過剰によるものです。そして、海外支援しているという肩書きや実績がほしいためだけに、ウガンダに粗悪な品を送り続けてくる国々。これがウガンダ人に「物は壊れて当たり前」の考えを植えつけています。
海外支援が決して誤った考えだとは思いませんし、むしろ素晴らしいと思います。ですが、それが全て正しいとは思えません。

一般的に良くあるのが、日ごろ必要とされる血圧計。これも使用を始めて1~2ヶ月で廃棄となってしまうことがあります。中には、使用者側のミスによるものも当然あります。しかし、質が悪いものも頻繁に見かけます。

それから先日、こんなこともありました。
近所の小学校にヨーロッパのとある国からパラボラアンテナが送られてきました。これは太陽光を集めて太陽の光だけで調理ができてしまう優れものですが、この国は事前の調査もほぼ行わないまま、ただ色んな物品だけを定期的に送りつけ、海外支援している気持ちになっているそうです。そしてこれらは全て無料。設置は、現物を見たことも無い現地人任せです。

理解しがたい事実ですが、このように受け取る側のニーズをほとんど聞かず、送る側の勝手な偏見による支援が多すぎる気がします。これらの支援が過度になってしまった場合、途上国を腐らせてしまう可能性があるのです。決してウガンダ人を批判するつもりはありませんが、その状況に成りつつあるウガンダを危惧しています。

もし欲しいかどうか分からない、別に欲しくなかったものをプレゼントされたらどう思いますか?大好きな人からのプレゼントならどんなものでも嬉しいかもしれません。しかし、どこの誰かも分からない人から、しかも見たこともない興味もないものだったらどうでしょうか?一応受け取るかもしれないものの、貰ったあとはダンボールに入ったまま使わない、使ってみたけど壊れたら放置、こんな状態かもしれません。

おそらく途上国に寄付される医療機器は、全てとは言いませんがこれに近い状況にあります。



皆さんは、勤めている会社や学校のパソコンが壊れてしまった時、どんな行動をとりますか?
必死でマニュアルを読んで復旧方法がないか、インターネットで同じ状態に陥った人がいないか情報を求めたり、同僚や友だちに相談してみると思います。最終的にはパソコンのメーカーに相談し、解決方法を求めるでしょう。

ウガンダ人は、携帯電話や家電など、自分にとって身近で必要なものに関しては、同じように頑張って解決方法を求めますが、オフィスや病院にある共有するものや、国や病院の資産として扱われるものに関しては関心が薄れます。

「自分の物じゃない。」「知らない。」

この考えが顕著に現れているのが、ウガンダの街です。自分の家周りは、毎日掃いて均してキレイにしていますが、共有スペースである道路や広場、公共トイレなどは、汚れていてゴミの捨て放題、道路はボコボコ。走っている車からペットボトルが飛んできたり、家の窓からトイレットペーパーの芯が降ってきた事もあります。



自分の物や場所ではないと判断したとき、責任感がゼロになってしまうのです。
そしてこの1人1人の考え方が、自分が勤務する病院のマネージメントすらも追い詰めているように思えてなりません。問題はできるだけ公にしない、危険な状態に陥るまで放置されがち。
なので自分の活動で今、一番大切にしていることは、常に「情報収集すること」です。



よく国際協力の在り方として、「魚を与えるのではなく、魚のとり方を教えよう」と言われます。全く同感です。
魚を食べて終えてしまったら、誰かから次に魚をもらえるまで、ただ待つしかないのです。
ですが、もし魚のとり方を知っていれば、釣りの楽しみ、とれた魚を周りの人に与えれば、その周辺も潤い、それが彼らのビジネスと成り得る可能性もあります。

答え(魚)を与えるのではなく、彼ら自身で考えさせ、答えを導かなければ意味がありません。日本人の考え、やり方をそのまま押しつけることも禁止です。育った環境による価値観、国民性など、大きく日本とは異なるからです。理解もされないまま、ただ何となく魚を取れればいいや、と思われてはダメなんです。

「魚釣り楽しい!」「魚料理おいしい!」
「いろんな人に自分の釣った魚をご馳走してやろう!」

と興味や関心、責任感を持たせることが大事で、それが国際協力の難しさだとつくづく感じます。
そして、ただ「与えるだけ」の国際協力は、彼らを受け身な考え方にしてしまっています。

「壊れたら修理するより次の寄付を待とう。」「誰かがやってくれるはず。」



エンジニアとしての社会人1年目、そういえば自分はこんなことを上司に言われたことがあります。
「受け身、後手に回ってはダメ。今日の問題は今日解決、明日に持ち越さない。」

尊敬できて頼れる先輩が身近に居たのですが、頼りにしすぎていました。結果、その人が居なくなったときに自分に責任が伸し掛り、居なくなったことを罵り、苦しくなったのです。そしてその言葉の意味が良く分かりました。幸いにも気付けたことで、態度を改めることができましたし、その後自分は、自分自身でよく考えるようになれたと思います。

全てが「他力本願」では絶対にうまくいかないのです。

確かに、途上国で本当に必要としているものはたくさんあります。それは物品に限らず、労働力、技術や知識など、探せばいくらでも見つかります。実際に先進国からの寄付によりウガンダ人の生活の質は格段に向上しています。ですが、従来身近に存在している資源や人の豊かさに気づかず、ひたすら先進国との差を嘆いているだけはダメなのです。

よくウガンダ人から、ビジネスの話を持ち掛けられます。
「車を日本から輸入したい。」「日本製家電の販売を一緒に始めよう!」

これも良いものを「作ろう」「長持ちさせよう」とする日本人と、良いものを「輸入」「物は使い捨て」と考えるウガンダ人の大きな違いです。日本も実際には、海外から、数多くの品を輸入していますが、それをヒントにより良いものを作り出したり、大切に長持ちさせようとするのが日本人だと思うのです。



一方で、ウガンダと日本の「違い」。この「違い」を埋めることがウガンダ人にとって本当の幸せなのでしょうか…?
ウガンダ人は日本人ひとりひとりが当たり前のようにデジカメ、パソコン、車などを所有することを羨ましく思っています。確かに日本は裕福です。いいことばかりに目が行きがちですが、いいことばかりではありません。日本を貶すつもりはありませんが、睡眠時間も儘ならずストレスを受け続け、毎年のように30,000人以上の自殺者を出すような国になることがウガンダ人にとっての幸せなのか疑問を感じるのです。
裕福度と幸福度は必ずしもイコールではないのです。
きっと、ウガンダにはウガンダ人に合った、発展の仕方があるはずです。そして先進国からの過剰な支援は、途上国の貧富の差を広げることにも繋がっていることも決して忘れてはなりません。



先進国で生活する人々の努力から生まれた税金により、遠く離れた発展途上国に寄付された大事な物品たちが、実はずっと倉庫に眠ったままだった・・・。これほど悲しい税金の無駄使いはありません。
だから、先進国で生活する人々が可哀想だからと、むやみやたらと国際協力に簡単に手を貸して欲しくない、というのが今回の記事で伝えたかったことです。
国際協力して欲しくない、ということではありません。ただ、皆さんが国際協力に少しでも携わるとき、この意見が少しでも参考になればと思います。


Ichimasa